2020/05/04

爛熟した文化で勝ち上がるために

文化には黎明と爛熟があります。

黎明とは、何もせずともエネルギーに満ち溢れているものです。
しかし、爛熟は、全盛でもあり、同時に爛れ落ちてしまうような甘ったるさがある。

この爛熟はなぜ発生するのでしょうか。
理由は簡単です。べっとりと存在を残す人がいるからです。

文化に寄り添うものとは、人です。
人とは、文化に訪れ、そして立ち去るもの。
そういう「新陳代謝」が多いものは、爛熟を迎えにくい。
常に新しい風が吹き込まれ、文化が生まれ変わるからです。

ですが、実在するにせよしないにせよ、存在感を残す人がいれば、
文化というのは限界を迎え始めます。

それが今の太鼓さん次郎です。
そしてベタベタと残っているのが、私たち古参です。
一生リーグ戦をやってるキモオタたちです。


さて、そんな中で私が最近よく考えるのは、
自分自身が強くなることよりも、自分と思想の似た人が後世に残ることです。

ですが、この際自分の思想を受け継がせるなんていうエゴを
人に押し付けたくはありません。
ということで、私は、今現在旬な人たちに意識してほしいことを書きます。
それが、爛熟した文化で勝ち上がる方法です。


①新しさ、独創性とは何かを考える

今の次郎界には、人を参考にする人が沢山います。
参考にするということは、敬意を持って接することなので、とても素晴らしいです。

ですが、参考にするだけが成長ではありません。
先人の轍を踏み続けることは、人の印象に残りにくいんです。

ある程度吸収したら、新しい方法論を作ってください。
また、皆が忘れていることに着目するのも面白いかもしれません。
そうやって、文化の代謝を加速させてください。


②人に優しくする、甘受する

文化を留めてしまうのは、先人の頭の固さが原因です。
今を進む人は、新風を受け入れる度量の大きさを大切にして欲しいです。

それは、優しくなることであり、極端な意見を持たないことです。
しなやかな強さを持つことが肝要です。


③目立つ、アピールする

ガンガン、自己アピールしてください。
別に次郎のことじゃなくてもいいです。人に存在を知らしめることです。

あの人なんか言ってるよ、と、周りの人間が少し気になる。
そんな存在になることは自分をことを知ってもらう機会が増えることです。


④上の世代を超える

最終的にはこういうことです。


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以上になります。

いずれにせよ、私が伝えたいのは、次郎という文化は爛熟を迎え始めていて、
今ノリにノッている皆さんに頑張って欲しいなあ的な、おっさんの記事でした。

それでは。

2019/03/25

牙を剥け

4月から社会人になるにあたって、たまにブログを更新するようにしたいと思う。

18年間学生をしてきたわけだけど、4月からは違う。正確にいえば3/29からはもう違う。端的に嫌だという感情しか出てこない。
今まで身近な人に社会人がいなかったことが実感の湧かなさに起因している気がする。母親は専業主婦で父親は自営業だから。そういう家で育ってきたからか、逆に何かに反抗したいからなのか、昔から何かに捉われるのは好きじゃなかった。自由で言う通りになる世界が好きだったし、型にはまっているような人間とか、そういう人の生き様を素敵と思わない人種なのだ。

はっきり言って、僕は人に合わせるのもルールに従うのも苦手じゃない。大学に入ってからは唯々それの連続でしかなかったから。クソみたいな勉強をして、クソみたいな飲み会に行き、クソみたいな先生に気を遣う。人並みには上手にできる方だと思っている。おかげで大学生活や就活もぼちぼちなんとかなった。

しかし自分の中の中学生はいつもくだらないと思っている。従うことそのものに馬鹿馬鹿しさ、あほらしさを感じる。仮面舞踏会の操り人形になることに。顔を仮面で覆った人たちが作った社会の中で踊らされ、そしていつの間にか自分が人形なのか仮面なのか分からなくなる。
誰もがくだらないと思っているように僕も思っている。そして誰もが社会で文句を言わないように、僕も文句を言わない。

はっきり言って、受験に失敗しているということを除けば、僕は成績もよく、課外活動も遊びもほどほどにこなしている、模範的な学生であることは間違いない。人前では謙虚になることもあるが、要求されたことを最低限こなしてきただけで学生はそれぐらいにはなる。
だけどそれは僕が中学生以降のことであり、小学生のときはとんでもない悪ガキもいいところだった。中学受験をしたので進学塾には通っていたが、学校では、授業をサボり、先生を呼び捨てにし、学校内の問題児ばかりと付き合っていた。真面目に授業を受けている女の子も、算数ブロックで一生懸命教えている先生も、九九を覚えない問題児も同様に馬鹿にしていた。同窓会で会った、小学校時代の友人は目も当てられないようなDQNで品のない奴らだった。はっきり言って今現在彼奴らと仲良くできるかと言ったら嘘になるが、少なくとも餓鬼んちょの頃はそのグループにいたのである。当然、毎日のように先生には怒鳴りつけられていた。
でも、法外な学費を中学受験用の塾に支払っていたので勉強は誰よりもできた。だから学生の本分である勉強さえできれば授業も聞かなくてもいいだろうと思っていた。

中学高校の勉強は案外難しいのでそうは思わなかったし、先生たちも素晴らしい人も多かったからサボるなんてことは一度もしなかったけど、大学は可能な限りサボった。出席は可能な限り代行してもらった。勿論、自分の中の最低限は全てこなしたので、特に問題はなかった。
大学院になって、研究室に入り、就活をすると、それが偉いという時代はとうの昔に終わっていたらしいことに気付いた。ふと、自分が馬鹿にしていた真面目に何かをする人たちが正しいとされる小学校に戻っているような感覚があった。

でもよくよく考えれば、言われたことが出来るという能力は、中学生や高校生ではなく、小学生や就活生、社会人に要求されることなのかもしれない。所詮は飼いならせる存在であることが重要だというのか。大人になるってそういうことなのか。
俺は全然そんなふうになりたくない。いつだって間違っていると思ったら反抗したい。周りに常に目を向けて、嫌われないように、気に入られるように、過ごしてて、楽しいのか?楽しい人はそれでいい。だけど俺はそうはなれないし、そうなれっていう奴になんか絶対になりたくない。気遣いが社会で一番大事なんだぞ!とかいう奴になってたまるものか!!

とか書いてみて、僕はきっと社会人として何十年も作り笑顔をして、上手に操り人形になる気がする。
僕らは最初は歯向かってもそのうち仲間になって優秀な戦力となるピエールである必要があるんだなと思った。ピエールなんて、100回ぐらい聞いた名前を付けてもらえてうれしいです!と言えるようにならなきゃいけないな。

でも、これを読んだあなたが、もし何かに耐えかねて、自分の中の鋭い感情を失ってしまっていたのなら、ふと牙をむいてみることも大事なんじゃないでしょうか。

学生から社会人という、生涯一度の変曲点での自分の気持ちを忘れたくない、出荷予定の歯車でした。

2017/05/21

大会お疲れ様でした。

昨日、第七回の創作譜面大会が終了しました。

この大会シリーズは、かれこれ6年前から続いて来たもので、思えばこの間に色々なことがあったなあと今更ながら思います。
僕は今年で23歳になるので、初めて大会を開いたのは16歳の時ですね。今でこそ老体に鞭を打って譜面を作ってはいますが、当時は気が狂っているかのように譜面のことばかり考えていた気がします。 

というのも、そこには切磋琢磨する仲間がいつもいたからなんですね。別に模試ではないですから、何か明確で絶対的な指標があるわけでもなかったのですが、それでも、お互い認め合う部分とぶつかり合う部分があって、こういう大会が積み重ねられて来ました。
僕の大会が次郎会で初めての大会ということではありませんが、本当に自然のうちに大会というものは生まれていました。評価方法も今と変わらず、曖昧で不明瞭なものでしたね。でも明確な指標がないこともまた一つ、大会の醍醐味なんだと思います。

そういうものがあると、行き着く先は、いつも見えない何かなんですね。勿論、当然のミスとかはあると思います。音取りが失敗していたとか、あまりに無理な配置があったとか。ですが、それが上手くいっているかどうかは大衆の定めるところの結果論でしかないわけで答えがあるということではないですから。

そしてこれは、創作譜面などというニッチな趣味には限らず、様々な事に対して普遍的に言えることです。大袈裟に言ってしまえば、人生だってそうだと思います。あまりに大袈裟すぎますが。 

だから自分の譜面が批判されてしまったり不評だったとき、純粋に悔しいという気持ちが何より先行されてしまうでしょう。創作というものは、その優劣に関わらず、常に自分の思考や思想の投影だからだと個人的には思います。
創作譜面は、他人様の曲に自分自身を投影するという、他ではあまりない行為を行うものですから、それほど恣意的に自分自身の思想を作品に乗り移らせることは難しいように思えます。更に言えば、所詮はテキストファイルにルールに従って数字を羅列するだけの世界ですから、表現の幅は狭いように感じられます。 

ですが、それでもその表現方法は無限大なのです。個人的には、その他の芸術などに比べたら、無限への収束スピードが速いだけに過ぎません。曲と人が存在する限り尽きることはありません。
そういう意味では、この太鼓さん次郎という途轍もなくインドアでニッチな趣味、とても良い塩梅だと思うのです。手軽だけれども、これだけの宇宙が広がっている、ということがね。

それを教えてくれるのが、「大会」であったと、個人的には思います。
大会というのはどんなものでも、9割の人、多くの参加者が悔しい思いをします。しかし、その1割、喜びに触れる感動は一入のものがあります。みな賢者の石を手に入れようと、取り憑かれてしまう。それほどまでに魅力的で甘美なものなのですね。
誰から褒賞や勲章がもらえるわけでもないのに、必死に努力する、これは創作の本質に他なりません。しかし、それが必ず上手くいくとは限らない。これは創作の本質が作り出す影です。 

そしてこれらは創作の本質であると同時に勝負の本質です。創作と勝負というのは必ず表裏一体なのです。何を創作するかは様々です。道具、武器、技術、戦術、自己研鑽、色々あると思います。
創作されたものは、得てして戦うためのものになることがあるのですね。 

私は、必死に生きていると、常に戦いを余儀なくされるのではないかと感じることがあります。私は大学に入ってからは、もっと言えば数字だけで評価される時代が終わってからは、これをひしひしと痛感します。しかも、圧倒的に認められることは少ない世界です。しかしまた同時に、生きることと戦うことがイコールではないことも自覚しています。

だとすれば、生きることとは、何なのでしょうか。私の中でこれはもう決まっていて、ここに書くのは容易いことですが、それはここまで読んで頂いた皆さんはもうお分かりでしょうね。
意味のないことをダラダラと書いてしまいましたが、この文章を書きながらも、あーこの辺の文は展開が良くないなあと考えてしまっているあたり重症ですね笑

最後に、第七回創作譜面大会に参加して頂いた皆様、そしてこれまでの創作譜面大会のシリーズに参加して頂いた皆様、本当にありがとうございました。 

そしてまた皆様と、勝負の場で相見えることを楽しみにしています。