2017/05/21

大会お疲れ様でした。

昨日、第七回の創作譜面大会が終了しました。

この大会シリーズは、かれこれ6年前から続いて来たもので、思えばこの間に色々なことがあったなあと今更ながら思います。
僕は今年で23歳になるので、初めて大会を開いたのは16歳の時ですね。今でこそ老体に鞭を打って譜面を作ってはいますが、当時は気が狂っているかのように譜面のことばかり考えていた気がします。 

というのも、そこには切磋琢磨する仲間がいつもいたからなんですね。別に模試ではないですから、何か明確で絶対的な指標があるわけでもなかったのですが、それでも、お互い認め合う部分とぶつかり合う部分があって、こういう大会が積み重ねられて来ました。
僕の大会が次郎会で初めての大会ということではありませんが、本当に自然のうちに大会というものは生まれていました。評価方法も今と変わらず、曖昧で不明瞭なものでしたね。でも明確な指標がないこともまた一つ、大会の醍醐味なんだと思います。

そういうものがあると、行き着く先は、いつも見えない何かなんですね。勿論、当然のミスとかはあると思います。音取りが失敗していたとか、あまりに無理な配置があったとか。ですが、それが上手くいっているかどうかは大衆の定めるところの結果論でしかないわけで答えがあるということではないですから。

そしてこれは、創作譜面などというニッチな趣味には限らず、様々な事に対して普遍的に言えることです。大袈裟に言ってしまえば、人生だってそうだと思います。あまりに大袈裟すぎますが。 

だから自分の譜面が批判されてしまったり不評だったとき、純粋に悔しいという気持ちが何より先行されてしまうでしょう。創作というものは、その優劣に関わらず、常に自分の思考や思想の投影だからだと個人的には思います。
創作譜面は、他人様の曲に自分自身を投影するという、他ではあまりない行為を行うものですから、それほど恣意的に自分自身の思想を作品に乗り移らせることは難しいように思えます。更に言えば、所詮はテキストファイルにルールに従って数字を羅列するだけの世界ですから、表現の幅は狭いように感じられます。 

ですが、それでもその表現方法は無限大なのです。個人的には、その他の芸術などに比べたら、無限への収束スピードが速いだけに過ぎません。曲と人が存在する限り尽きることはありません。
そういう意味では、この太鼓さん次郎という途轍もなくインドアでニッチな趣味、とても良い塩梅だと思うのです。手軽だけれども、これだけの宇宙が広がっている、ということがね。

それを教えてくれるのが、「大会」であったと、個人的には思います。
大会というのはどんなものでも、9割の人、多くの参加者が悔しい思いをします。しかし、その1割、喜びに触れる感動は一入のものがあります。みな賢者の石を手に入れようと、取り憑かれてしまう。それほどまでに魅力的で甘美なものなのですね。
誰から褒賞や勲章がもらえるわけでもないのに、必死に努力する、これは創作の本質に他なりません。しかし、それが必ず上手くいくとは限らない。これは創作の本質が作り出す影です。 

そしてこれらは創作の本質であると同時に勝負の本質です。創作と勝負というのは必ず表裏一体なのです。何を創作するかは様々です。道具、武器、技術、戦術、自己研鑽、色々あると思います。
創作されたものは、得てして戦うためのものになることがあるのですね。 

私は、必死に生きていると、常に戦いを余儀なくされるのではないかと感じることがあります。私は大学に入ってからは、もっと言えば数字だけで評価される時代が終わってからは、これをひしひしと痛感します。しかも、圧倒的に認められることは少ない世界です。しかしまた同時に、生きることと戦うことがイコールではないことも自覚しています。

だとすれば、生きることとは、何なのでしょうか。私の中でこれはもう決まっていて、ここに書くのは容易いことですが、それはここまで読んで頂いた皆さんはもうお分かりでしょうね。
意味のないことをダラダラと書いてしまいましたが、この文章を書きながらも、あーこの辺の文は展開が良くないなあと考えてしまっているあたり重症ですね笑

最後に、第七回創作譜面大会に参加して頂いた皆様、そしてこれまでの創作譜面大会のシリーズに参加して頂いた皆様、本当にありがとうございました。 

そしてまた皆様と、勝負の場で相見えることを楽しみにしています。